Stay Gold!

羽生結弦くんの応援ブログです。ここで記載されている内容はあくまでも私の個人的な意見であり、正当性を評価したものではありません。どのように受け取るかはそれぞれがご判断ください。

流血のファントム 〜狂気の中に何を見たのか 2〜

どのくらいの時間がたったのか、6練が再開されたとき、リンクにはハンヤンの姿はなかった。
私はてっきりゆづも現れないものだと信じて疑わなかった。
今日はやらなくていい。
バラ1の美しいイーグルや進化したスケーティング、そして、オペラ座の衣装を間近で見れただけでも、中国まで来てよかったと思えていたから。
この状況で彼が滑るだろうとはまったく思っていなかった。
それは私がまだ「羽生結弦」という人間を理解していなかったからなのかもしれない。

頭にバンテージを巻いたゆづがリンクサイドに現れた時、会場中が悲鳴に近い声をあげていた気がする。
まさか、やる気なのか?と。
遠くから見る顔からは血の気がすっかり引いていて、普段から白い顔がますます白く見えた。
「やめよう、ゆづ、今日は、もういいよ」と思っていた。

いつもと同じようにつっこむような勢いでリンクに飛び出す彼。
怪我をしていることを表すバンテージが痛々しかった。

鬼のようにジャンプを確認するゆづ。
ジャンプを跳ぶ度に右肩を揺らしながらどこか痛そうな仕草をしながら咳き込んでいた。
いま思うとゆづよりも私のほうがはるかに冷静でなかった。
この時、彼は、自分が滑りきれる構成を考えながら、ひとつひとつ指差しで、ジャンプポイントを確認して、予定にない3Lz+2Tの軌道を確認し、どこでどのエレメンツを抜いて、何をやり切るかを虎視眈々と考えていたのだから。
私はその姿をぼんやり見ていただけで、そんな意図をもって彼が練習していたことに気付かなかった。
あまりにも痛々しいその姿をみて、私は自分でも無意識のうちに、目の前を滑り去ろうとするゆづに「ゆづ、やめようよ」と叫んでいた。
彼が何を思ったのか、私には分からない。
しなくていいことだった、と今は思う。
でも、心のそこから出た言葉だったし、そんな自分を止められないくらい、動揺していたのだろうと思う。
この時から彼の眼差しは狂気に満ちていたと思うし、得も言われぬオーラに包まれていた。

この6連に出る前にブライアンと話し合う姿が遠めにもよく見えた。
ブライアンも本気で彼を説得しているんだろうと思っていた。
実際に何を言っていたのかを知ったのは部屋に帰ってきて、ネットで知ったのだけれど。
それでもやることを選択した。

この6連の時、他の選手はゆづが近くに来ると、さっと、場所を開け、なるべく彼に近づかないように、気を使っているように見えた。
それがあの事件のあとだったからなのか、彼から出てるオーラのせいだったのかわからないけれど、リンクの上にはいつもとは違った緊張感が漂っていた。

その時、私が考えていたことは、ハンヤンが棄権するなら、滑走順が繰り上がる。
少しでも身体を休める時間が欲しい彼にとってはさらに厳しい状況になるだろうということだった。
2Gの最初の滑走者はナムくん。
いつもクリケットで一緒に練習する彼はゆづのあの姿を見ながら、
どんな気持ちでリンクにたったのだろう。
いつものナムくんらしい明るさや軽快さがちょっと足りないのではと思える演技。
それでも途中で抜けたアクセルをリカバリする賢さをみせつつのミスを最小限に抑える演技。
その落ち着きっぷりに感服しながら、そのキスクラにいないオーサーを思うと、ゆづの状態が心配で心配で仕方なかった。
Twitterでこの時、ナムくんがオーサーがキスクラに来ようとするのを追い返し、ゆづのそばにいさせたというのを知って、16歳の気遣いに驚いたりもした)

2Gで滑った人はみんな重い重い何かを背負って、滑ったのだと思う。
身体に切れがなかったりジャンプがすっぽぬけたり、きっと、みんなして悪夢を見ていたのだと思う。

つづく。

流血のファントム 〜狂気の中に何を見たのか 1〜

「馬鹿だな」と演技が終わった時、私は小さく呟いていた。
それ以外の言葉が見つからなかった。
目の前で繰り広げられた演技は気迫と狂気に満ちていた。
 
そこにたどり着くまで、私は一滴の涙も流すことはなかった。
 
まるで、夢を見ているか、映画の1シーンを見ているかのように、
目の前で繰り広げられた全てに現実感がまるでなかったからだと思う。
 
それはあまりに突然の出来事だった。
ジャージを着ずに、バックヤードから出てきたゆづをみて、その衣装に、会場が湧いていた。
赤がカッコイイとか、キラキラだとか、予想どおりとか、それぞれ、盛り上がって、ざわざわがいつまでも落ち着かなかった。
やっと、オペラ座を見られる、という熱気が会場中に渦巻いていたと思う。
6連でいつものように先陣を切って飛び出す彼の様子は気合いに満ちていた。
今日は結果を残すという意思が表情やオーラから伝わってきていた。
 
身体もキレキレだったと思う。
練習冒頭で鮮やかにジャンプを決めている彼を見て、ものすごいことが起こるんじゃないかと私もワクワクしてた。
 
その直後だった。
あの事件が起きたのは。
 
ハンヤンとゆづの軌道が重なっていることに私たちも気付いた時、
後ろ向きに滑っていたふたりが振り向いてお互いに気づいた時、
もう、それを回避する時間は残っていなかった。
あまりのスピードに何もなすすべがなかった。
 
会場中から悲鳴があがって、ゆづの名前を何度も叫んでいる人もいた。
自分がどうだったのか、正直、まったく思い出せない。
 
今回はジャッジ後ろのほぼ真ん中のいい席だったので、
自分の目の前でふたりが交差し、体のぶつかる鈍い音をたててから、
アイスに横になるハンヤンと、ゆづを正面で見ていた。
先に立ち上がってリンクを去ったのはハンヤンだった。
苦しそうに胸を押さえながら、動けないゆづを見て、私はその場にいるのが恐ろしかった。
 
最近の彼から、もしかしたら彼は、いつか、その命を氷の上で終えるのではないか、
と漠然とした不安を感じていたからかもしれない。
 
他の選手が捌けた広いリンクに横たわった彼だけが取り残される。
なぜ、誰も、彼に駆け寄らないのか不思議だった。
メデイィカルスタッフが彼に近づくまでものすごい時間が流れていたような気がした。
 
私が見る限り、最初から胸の上あたりを押さえて、咳き込んだりしながら、
メデイィカルスタッフに支えられながら、立ち上がった彼の額と、喉のあたりに血がついているのが見えて、ぞっと、していた。
彼もしきりに口元のあたりを気にしていたので、口の中を切ったのか、と思っていた。
 
リンクサイドに上がった彼の周りを沢山の人が取り囲み、もう私の席からは様子が見えなかった。
永遠とも感じるくらいの長い時間がそこにはあった。
私は誰もいなくなったリンクを前に、なぜか、呆然と立ち尽くしていた。
何をしていいのか分からなかった。
 
日本から情報を取ろうとiPhoneでネットに繋ごうにも、中国は通信環境が悪すぎて、まったく役には立たなかった。
(みなさん、ワールドの時はVPNの準備を!)
 
自分も座って落ち着いたころ、後ろに座っていたご夫婦の旦那様がちょうど、ハンヤンとゆづがぶつかっている瞬間を撮っていた写真を見せてくれた。
ちょうど、振り返りざまにゆづを見つけたハンヤンが驚いて、「あ」というような表情にかわり、その顔面に、ゆづが斜めに激突して、こめかみにちょうどハンヤンの歯があたったのではないか?と思える写真だった。
彼のこめかみから出た血はこのせいだったのかもしれない。
 
その写真の2人の歪んだ顔を見て、その衝撃の大きさと、目の前で起こったことの一部を垣間見た気がしていた。
 
つづく。

【雑感】私に何を期待しているのでしょうか?

黙っていればもしかしたら、時間が過ぎて薄れていくのかもしれません。
そういう選択肢があったかもしれませんが、それを選択することはやはり難しいです。

私があのブログを紹介したことがこれほどの大事になるとは正直、思っていませんでした。

前の記事にも書きましたが、私はあの記事だけを読んでその内容に涙した、と書き、ご紹介させていただきました。
そのことにいろいろ意味づけされている方もいらっしゃいますが、どれも正しくありません。
私の心で感じたことをご自分で意味付けされて勝手に解釈されてるだけです。
他のみなさんがどのような思いでその言葉を受け止めたのか分かりません。

ブログ主の言葉に刺があるという表現をされていた方もいました。
ぶっきらぼうな表現もあったかもしれませんが、私は彼をよく見ているな、と感じたのです。
彼が選択したものをちゃんと見ている、そう感じました。
そして、言葉にするには危険な考えをファンでもない選手のために選択する勇気があるのか、というのに驚きました。
ああいう生き方で自分を示すことは無駄じゃないんだ、という思いが涙に繋がりました。
理解されて嬉しかったのは私の辛さではなく、彼自身のがんばりです。

だって、私、辛くないですよ。
彼が非難されることに怒りはあっても、私にはそれを口に出来るチャンスもあるし、
ネットの中にも、そしてリアルでも私が感じている憤りを理解してくれる人がいます。

誹謗中傷の言葉を見て辛いのはきっと選手自身だと思います。
だから、あのブログを見て、私は泣いたのです。

そのことを恥じたり、悔いたりするつもりはやっぱり今でもありません。
今、公開されているブログを読んでも私にはそれほど大きく引っかかるところがないのです。
これを言うことでまた叩かれそうですが、私にはそう感じられたということです。
それで私に失望されるのであればそれも仕方ありません。
考え方は違っているのだと思ってください。

そして一部の方は私に暗に改心することを求めています。
私がゆづに対する批判にたいしては意見をいうのに、他の選手にたいするそれに理解を示さないことへの批判です。
それが陰謀論への加担だとおっしゃるかたもいらっしゃいます。

私もTwitterでRTをする時はプロフィールを見たり、前後のツイートを見たりする程度の自己防衛はします。
でも、それは自己防衛のためであって、すべてのフィギュア選手とそのファンを思ってではないのです。

私を批判される方々は普段から過去の経緯にすべて目を通されて発言されているのですか?
それはとても立派なことですが、時間に余裕がなければ出来ないことです。
その余裕がなければブログ記事ひとつ紹介するな、とそういうことを言っているのですか?
それを見て気づく嗅覚をもつように努力して欲しい、というようなご意見もありました。

なぜ、そこまで求められるのでしょうか?
それはたまたま私のフォロワーが多いからですか?
すべてのフィギュアファンにみなさんはそれを要求されるのですか?
私が「ゆづ」を擁護するからですか?

何度、考えても私にはその発想を受け取ることができません。
そうでなければフィギュアファン失格だと思われるのなら、そのように受け取られるのも仕方ないです。

私は完璧な人間ではありません。
間違いばかりおかす人間かもしれません。

それでも、あなた方の主張が正しいとは思えませんし、それが誰にでも受け入れられると思っていることには憤りを感じます。

自分が正しいと思うことのために、自分が戦う。
自分が守りたいもののために自分が力を発揮する。
そのスタンスはどれほど非難されても私は変えないでしょう。

もっと言えば、わたしひとりが見ないでなかったことにすると、それはなくなるようなものなのですか?
その事象をなかったものにしたくないのなら、それぞれが声を上げればいいのではないですか?
なぜ、それを私に求めるのでしょう?
そんな期待をされても困ります。

私をフォローしてくださっているゆづファンのみなさま。
私の言葉を大切にしてくださった皆様。
失望させて本当にもうしわけないです。

ですが、これが私のすべてです。
残念な人だと思うなら、フォローを外していただくなり、ブロックしていただくなり、してください。

そして最後にもうひとつ。
声高に私にそれを求めている方のひとりはかつて利用していたアカウントで選手を非難していましたよね。
ここで言葉で表現するのがはばかられるくらいの厳しい言葉で。
アカウントを消して、過去をなかったことにしたから、その言葉を私に向けられる、そういうことですか?
しらばっくれるつもりならそれでもいいです。
敢えてアカウントは晒しませんが、ご自分のことだから分かるはずですよ。

私はそれもありだと思います。
人の意見は変わりますし、その時々、揺れることもあるでしょう。
それをふまえて他人も見るべきではないのですか?ということを伝えたいのです。

あなた方の望む人間になれませんが、私は自分がオープンに発信することを諦めません。
そして、今回のようなことがあれば、私なりの意見をまとめて言葉にすることも変わりません。
何一つ、期待に添えませんが、ファンであることもやめません。
だから、もう私に期待するのはやめてください。
自分たちの大事なものは自分で守ってください。

[雑感]紹介したブログに関しての思い

まだ、この話の落としどころが分かっていないまま、記事を書こうとしています。
少なくとも心を動かされた人への説明責任はあるかと思えたので。

それは朝、ひとつのブログ記事を見つけたところから始まります。

私はその記事に書かれた言葉に素直にいろんな感情を揺さぶられたので、記事を紹介しました。
その時に感じた感情まで反省する気は全くありません。
今でもその気持ちはみじんも変わっていません。

ただ、実際にその方の背景を調べた方々もいらっしゃって、
陰謀論と言われる発言や、女子選手への意見を書いた別ブログにたどり着いたり、
さらにはTwitter上で有名な怪しい人と繋がっていることを突き止めたようです。

私もRTをするときには、その方の過去の発言をちらっと見ますが、
さすがに今回のブログ記事に関してはそこまでのアクションは取りませんでした。
それを不用意と責められるのなら、甘んじて受けようと思います。

ただ、このツイートはたくさんの方にリツイートされたり、ふぁぼられたり、コメントを直接、頂いたり、反響の多いツイートでした。
そうでなかったら、この記事は書かなくてもすんだかもしれません。
ただそういう背景を判断した上で行動したい思われている方々にとっては、
不本意に私のつぶやきを扱ってしまったという憤りもあるかもしれません。

これからも同じようなことはきっとあると思います。
間違えずにすべての発言に整合性をとり、現在、過去、未来、気持ちもぶれもなく、常に正しさを追求したりはできません。
それでも私は呟き続けると思うし、こうしてブログも書くでしょう。
あくまでもこれは私的なつぶやきであり、発言であることには変わりないから。

何度も考えたけど、あの記事に感じた思いはやっぱり変わらないです。
少なくとも私はあの記事だけを、スナップショットとして受け取って感じたことを書いたので。

私はこれからどなたかの記事をご紹介するとき、だれかの言葉をRTするとき、
すべての背景を確認して、その判断をしないかもしれません。
それによって自分が不快な思いをするのが嫌だと言うかたは、ぜひ、その情報をすべて確認してから行動してください。

このつぶやきに反応してくださったすべての方々。
上記をふまえた上で、この記事をどう判断すべきか考えてください。

それが私に言える精一杯の言葉です。

【雑感】キミの笑顔が見たいから

昨日はとっても久しぶりにスケートをしに行っていました。
滑りながら風を感じる感覚がいいな、みたいな超初心者ですがw。

そして久しぶりにガッツリと肉を食べようと出てくるのを待っていて、
フィン杯のエントリーからゆづの名前が消えていることに気づいた人のツイートに出くわして、何か、そわそわし始めたわけです。

そして腰痛によるフィン杯欠場との一報。
全治4週間って結構、長いよね。
驚きもあったけれど、こんな過酷な競技で限界に挑戦し続けて練習を日々こなしている以上は、仕方のないことだと思っていた。

ニュースや新聞で続報が流れる。
まさかB級大会の欠場をこれほど大きくニュースとして扱われるとは思わなかった。
羽生結弦というアスリートの動向は多くの人に注目されるものになったんだね。

怪我の状態が本当のところどうなのか報道だけでは判断がつかない。
中国杯には間に合うというものもあれば、中国杯も欠場かもと煽るものもある。
ファンがどんなにやきもきしてもその真相が今の時点で分かることはない。

心配、ものすごく心配。
それは応援するファンにとってはみんなそうだと思う。

身体を酷使しすぎたオリンピックシーズン。
本当に忙しすぎたよね。
オリンピックが終わって、世界選手権があって、怒涛のショーラッシュ。
CMがあって、DVDが出て、写真集があって、24Hテレビの撮影。
その中で新しいプログラムをショートとフリーと両方を作って、新しいクワドに挑戦して。
「生きいそぐ」というのはまさにキミのためにあるような言葉だと思っている。

だから、怪我は神様からの警告のようなものじゃないかな?と思ったりもする。
そんなに生きいそがなくていいと。
休むことも必要だと。
今回、いろいろな気持ちはあるかもしれないけれど、怪我を目の前にちゃんと休むという選択を出来てよかった、と思う。
キミのその身体はひとつしかない。
誰もその痛みや辛さを代わってあげることができないから。
じっくり休んでほしいと思う。

もちろん、ゆづが氷の上で見せてくれるプログラムが楽しみだけれど。
それよりもキミが元気でいてくれることのほうが大事。
満足いく演技の後に見せるキミの笑顔が見たいから。

いくらでも待つよ。
「僕なりのファントム」に会える日を楽しみに待ってるよ。

【雑感】フィギュアスケートの未来

DOIで初めて今年のプログラムのバラード1番を見たとき、息を飲んだ。

彼が冒頭に3Aを跳んだのを見て、直感したから。
4Tは後半に跳ぶのだということ、そして、もしかしたらコンボかもしれないと。
さすがにそれはなかったけれど、今年も攻めるのか、と。
まさかSPの構成をいじるとは思っていなかった私の推測を超えていてびっくりしてた。

でもね、びっくりはそれで終わらなかったんだよ、彼の挑戦は。
フリーのオペラ座の構成について、クワド3本は覚悟してた。
でも、まさか、コンビネーションを後半に持ってくるなんて。
しかも映像では3A-1Lo-3Sを跳んでいる姿もちらっと映って、驚くのなんのって。
どこまでも攻めるんだ、彼は、と思ったから。

ショーの合間に4Loを成功させた事も、4Lzや4Aにもトライしていることが漏れ聞こえたてきて、
本人は自分へのご褒美なんて曖昧な表現をしてたけれど。


今週、愛知で行われていたジュニアグランプリ。
始まる前からしょーまの綺麗なクワドが話題に。
3Aより、先にクワドが安定するなんて、カナダ人?なんて突っ込みを入れたくなるくらい綺麗だった。
映像からは安定感も感じられて、本当に楽しみだな、と思っていた。

ジュニアのショートではクワドが跳べないと知ったのは、ボーヤンも、しょーまも入れていないのを見てだった。
そっか、FSが勝負なのか、と妙に納得したりして。

そして、今日。
私が感じたのは「フィギュアスケートの未来」。
平昌を目指すスケータが見ているその未来。

ボーヤンは3クワドを決め、しょーまも2クワドに挑戦(ひとつは回転不足)。
その2人の演技は今すぐシニアにいっても十分に結果を残せるものに見えた。
もちろんそれぞれタイプは違う。
ボーヤンのTESは恐ろしく高い。シニアでもあれだけのTESを取る選手はいない。
しょーまは3Aが入っていないので、ちょっとだけジャンプ構成は低いけど、スピンや他のところでしっかり稼ぐ。
僅差の素晴らしい試合だった。
え、ジュニアの試合なの?と思うくらいの展開だったと思う。

その時、自分の中で腑に落ちた事があった。
ああ、だからか。
ゆづの構成は攻めているように見えたけど、王者として地位を守るための選択だったんだろうと。
挑戦することが「攻撃は最大の防御」という選択だったんじゃないかな?と思えてきて。
こんな未来がくる事を予想していたのだろう、と思うとその感覚の鋭さに驚いたり、感心したり。
クワドの種類を増やそうとしている事もこれは未来で選択しなければ行けなくなった時の準備なんだろうね。

あのプル様ですら、平昌で戦うには、クワドの種類が必要だと言ってたね(あれ、ヤナさんだっけ?)。
そのために1シーズン大会に出なくても、それを習得すると言ってたような。
ま、本当にできるかどうかは分からないけど、プル様はそれが「フィギュアスケートの未来」だと思っているということだよね。

男子シングルの世界はクワドを跳ばなくても勝てるオリンピックを経て、ソチオリンピックでクワドは勝つために当たり前の武器になった。
さらに、それはもっと、もっと進化していくと選手はその未来に向かっている。
どれが欠けても勝てない、トータルパッケージを実現できる選手だけが、勝てる時代。
選手にとっては苦しい事も増えるかもしれない。

それでもその進化に私はワクワクせずにはいられない。
ゆづがその進化の中でどうやって戦い抜くのか。
若い世代やライバル達はどうやって彼を倒そうと戦略を練ってくるのか。

これから平昌を目指すゆづの3年半。
決して平坦な道ではないのだろうと想像している。
いつ彼の地位を脅かす選手がでてきても不思議ではない。
勝つ事よりも、勝ち続ける事の方がはるかに難しいのがスポーツの世界。

追われる側が逃げ切るのは本当に難しい。

それでも私は彼を応援し続けると思う。
彼が目指すもうひとつの金メダルをとるその瞬間まで。
彼とともにフィギュアスケートの未来を目に焼きつけながら。

しょーまが3Aをモノにしたら、平昌のゆづの一番のライバルは彼かもしれないなと実感した今日でした。

【雑感】スーパースターになった君へ 〜24時間テレビに思うこと〜

ゆづが好きだと言っていた「back number」の「スーパースターになったら」という曲を、一人で静かなところで聞くと、無条件に涙がこぼれる。
この歌は恋人に向けたもの何だろうけれど、彼はこの曲に故郷への思いを重ねていたのではないかと感じたから。
ゆづにとって、「スーパースター」になる事は「金メダル」を取る事だったんだと思う。
どんな決意でそれに向かって行ったか、つぶさに見続けた。
そう、歴史を共有できる素晴らしいタイミングでここに存在する事ができたことに感謝しかない。

24時間テレビの特集を見て気づいた事は、いつの間にか、彼は「少年」ではなく「大人」になっていたということ。
頼もしくなったな、と。

私が彼を知ったとき、すでに彼は「ただのスケーター」ではなく、「被災をしたスケーター」だった。
そういう意味では私は「ただのスケーター」だった羽生結弦を残念ながら知らない。
もちろん、過去の映像を見ることもあるけれど、先入観なしで見るのはなかなか難しい。

そう、「被災した」という事は「羽生結弦」の一部。
できるならそんな重いものを本人も背負いたくなかっただろう。
それは容易に想像がつく。
でもね、時間を巻き戻す事は誰にもできない。
そこに存在した事象をなかったことになってできないんだよね。

こういう激しい痛みは、確かに時間とともに薄れていく。
薄れていくことはあっても、ずっと、ずっと、消える事はない。
痛みを知った人は残りの人生をその痛みに寄り添いながら生きていくしか選択肢がない。
だれでも「辛い記憶が消えてくれたら」と思う瞬間があると思う。

彼にとっての「被災地への思い」は心の中から、消える事はないのだろう。
消える事のないものであれば、そのために何ができるのか、そう考えても不思議じゃない。

インタビューの中で「被災地から逃れた罪悪感」を言葉にしていた。
そういうことを言われたりもしたのだろうね。
自分の中からもそういう気持ちは湧いてきたのかもしれない。
物事を繊細に捉えるタイプに見えるから余計に辛いことも多かったんだろうね。

オリンピックの「金メダル」をとったけれど、被災地の現状は変わらない。
彼が得た報奨金を寄付したとしても、あれほど広範囲に傷跡がのこる被災地がいきなり復興する訳ではないし、二度と震災前の状態には戻らないところもあるだろう。

日本の社会で一番、安全なところにいようと思ったら選択肢は「沈黙」になる。
はっきりとした言葉でスタンスを語ることで、揚げ足をとる人も、信じられない言葉で非難する人も出てくる。
それを押してもなお、彼は自分が「被災地」を象徴する存在である事を受け入れ、
同じ痛みを持った人々と、気持ちを共有したい、と活動を続けようとしている。
それが勇気と覚悟がなければできないことを私は知っている。

彼は運命を目の前に、逃げるのではなく、戦うことを選択したのではないか、と思っている。

これからも彼の選択を非難する人や、否定する人も出てくるだろう。
ただのアスリートとして生きることはもはやできないのかもしれない。
それでも彼はアスリートとして挑戦し続けること、この震災に対しての自分のあり方を明確にする事を、
オリンピックの終わったこのシーズンにちゃんとメッセージとしてそれを私たちに伝えてくれている。

心配もたくさんあるよ。
頑張りすぎて心や身体へ負担がかかるんじゃないかとか。
彼を攻撃する人たちの言葉に傷つかないかとか。



でもね、君が選んだ道。
君の勇気と覚悟の結晶。

大人の私から見て、無謀だったり、無茶だったりに見えても、それは私の感情でしかない。
自分が19歳のころ、もっと覚悟もなく、ふらっと生きてことを考えれば、はるかにしっかりしている。


ひとりのファンである私にできる事は、君がたどり着きたい世界に手にするための選択を、できる限り応援し、ちょっとした後押しをするくらい。
そのチャンスをもらえたことは本当に幸せなこと。

その反面、「スーパースター」になれなくても、「金メダル」が取れなくても、君を応援する気持ちは変わらないことを伝えられたら、と思ったりもする。
君からもらった勇気や、元気や、笑顔はそんな物理的なものよりも私たちを豊かにしてくれているのだと。


ありがとう。
すてきなパフォーマンスを見せてくれて。
ありがとう。
そこに存在してくれて。

ありがとう。
かっこいい生き方を見せてくれて。


昨日のロミオは皆殺しロミオではなく、癒しのロミオだった気がしたよ。

【雑感】ピョンチャンでの戦いに向けた選択 〜羽生結弦の挑戦〜

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今日から、通常運転に戻ります。

昨日、ツイッターで「オリンピックシーズンの次の年ってみんな構成をこんなにあげるものなの?」みたいなつぶやきを見つけました。
今年の男子スケーターのプログラム構成を見ると本当にチャレンジングな構成が多い。

そこで、オリンピックシーズンの翌年の2011年の世界選手権のプロトロルを見てみました。

■2011年世界選手権男子シングル
ショートプログラムプロトコル 
・フリープログラムプロトコル


そう、この年は、4回転はいらないとも言っていたパトリックがルールの改正を受けて、ショートとフリーで4回転を3本跳んで、圧倒的な勝ち方をした年です。
今年のプロトコルと比較しても、パトリックのジャンプ構成はほぼここで確立されています。

16歳のゆづはこのパトリックを見て、どう思ったんでしょうね?

19歳になった自分がソチオリンピックに出たいと思ったとき、少なくともそこまでは追いつかなきゃいけないと思ったんじゃないのかな?
そこからの彼の選択はすでにみなさんが目にしたものなので敢えて書きませんが。

これから、ピョンチャンまでの4年(厳密にはもうあと3年半)。
彼はパトリックのように次の世代から追い上げられるだろう、ときっとヒシヒシと感じていると思う。

その結果、ショートで4回転を後半に、フリーで4回転3回、しかも1本は後半にコンビネーションというジャンプ構成を選択。
パトリックのように、他の選手に向けてハードルを上げてみせる、という決意だった気がしてきました。

来年を見てみなければ何とも言えないですが、そこで止まる気はゆづにはない気がする。
ピョンチャンまで進化し続けるつもりなんじゃないの?と思わせるところもありますよね。
もちろん、スケオタに「宇宙人」と言われる彼でも、人間なので、できる事には限界があるかもしれませんが、いま、練習している4Lo、4Lz、そしてもしかしたら4Aもプログラムに組み込まれる可能性もある訳です。

そう、4年後、かつての自分のように後ろから追いかけてくるライバルにその座を奪われないように、進化し続けようと思っているのかな、と。
ピョンチャンオリンピックでもう一度、あの、輝いたメダルを手に入れるための彼の戦略。

大きかったパトリックとの差を、もの凄い勢いで埋めた自分のような選手が、出てくるだろう、と感じてるはず。
フィギュアスケートの進化のために、そうなって欲しい、と心から思っているのかもしれません。

私が応援するようになってからも毎年、毎年、ジャンプ構成を上げてきて、ファンをやきもきさせる彼です。
落ち着いて試合を見る事のない応援生活が続くのでしょうね。

今年もどきどきしながら、そのプログラムが完成するのを、
そしてその道がピョンチャンに繋がっている事を楽しみに見ていきたいと思っています。

蛇足ながら、2011年のパトリックのプログラムは「オペラ座の怪人」。
ゆづはどんな「ファントム」を見せてくれるのかな?

楽しみすぎて、フィンランディア杯が待ちきれません。

言葉はそれほど自由なのか? 〜代理戦争という免罪符〜

代理戦争、とっても便利な言葉だな、と私は感じていました。
その言葉を使えばすべてにおいて、喧嘩両成敗にでもなると思ったのだろうか?としばし悩みました。
確かに事象だけを見れば、髙橋大輔のファンだと公言している人の呟いた言葉に羽生結弦のファンが意見を言いました。
だから、代理戦争ですか?
安易すぎて驚きます。

羽生結弦にむけられた「中傷」としか取れない言葉。
ファンなら不快感を抱いても仕方がないでしょう?
もしかしたらファンでなくても被災された方にとっても許しがたい言葉かもしれません。

批判は「髙橋大輔のファン」だからされたのではないのです。
どうして、それだけの事が分からないのですか?
比較対象が悪いとも思いますが、もし、同じ事を他の選手のファンがしても同じような意見が出たと思っています。
いえ、それが他の選手のファンではなく、普通の論客であっても、同じ事を呟いていたら、同じ批判を受けたでしょう。
ただ、そのためには「相手から見つかる」というアクションが必要です。

発言主を私は前から知っていました。
検索するとどうしても引っかかってしまうという切ない事情です。
選手の演技に関するもの、発言に関するもの、恐ろしくたくさんの否定的な言葉が綴られていました。
納得も行かなかったし、悔しかったり、寂しかったりもしましたし、Blogにも憤りを書いた事もあります。

今回の言葉の発言主はよくも悪くも有名人だったのです。
髙橋大輔のファン」を公言しながら「羽生結弦」への「中傷を続ける」アカウントのひとつ、として。

 

私は高橋大輔さんに同情します。

こんな不可解なファンに囲まれる事に。
そんな人ばかりでないと知っていますので、余計にこんな事を言うのは心苦しいですが。

 

自分が彼、本人だったとしたら、こんなファンに応援されても嬉しくないですよ。
自分のライバルをことごとく誹謗中傷して、自分の正当性を認められて嬉しいアスリートがいたら驚きます。
彼らは自分の力でライバルに、自分に勝とうと日々、努力している人たちです。
スキャンダル的な言葉で相手を引き摺り下ろして、貶めて勝ちたいなんて思うでしょうか?
ルールがおかしい、ジャッジがおかしい、お金で金メダルを勝った、スケ連に優遇されてるだからライバルが勝った、と擁護されたら、恥ずかしくて、苦しくなりませんか?自分だったら?

しかもそれを公然と誰でも見れる場所でやっている。
止めて欲しい、と思うのではないでしょうか?

選手のアイコンを使っていたり、誰かの選手のファンであることを公言した上で発言される言葉は、自分がどう思うかに関わらず、「その選手のファンが発言したこと」とレッテルを貼られます。
それが酷ければ、つぎに非難されるのはその選手本人です。
そんな酷い事になぜアスリートを巻き込まなきゃいけないのでしょうか?
ファンであるとはどういう事ですか?
ファンの正しいあり方ってどういう事なのでしょう?
それを考えて行動していますか?
ファンとしての矜持をもう一度、考えてください。
代理戦争などと言って、アスリートを巻き込まないでください。
彼らには何の関係もないのです。

それはアスリートが発した言葉の代理発言ではなく、発した人の言葉です。
代理戦争で自分は悪くない、という主張は見苦しいです。


そもそもファン同士の代理戦争なんてどこにあるんですか?
「批判」や「中傷」の垂れ流しは戦争ではないと思います。
戦争とは戦う事です。
誰が何と戦っているのですか?

 

もう、やめましょう。
自分の行動に代理戦争という言葉で正当性を持たせる事は。

 

代理戦争なんてどこにもないのです。

言葉はそれほど自由なのか? 〜「震災をアクセサリー」にしている発言について 2〜

日本人は議論の仕方を知らない、と普段から感じています。

ある事象に対して、異なる意見を交換するという事が苦手で、反論を「人格攻撃」と勘違いする傾向が強いです。
それがこの事件にも現れていたと思います。

だれも貴方を責めていません。
発せられた言葉に対する意見を言っているのです。
「震災をアクセサリーにしている」に対する反対の意見は「その言葉は不快だから、訂正して欲しい(削除して欲しい)」です。
あなたが誰のファンだとか、どういう生活をしてるとか、性格が気に入らないとか、そんな話ではなかったはず。
では、その意見に従わなきゃ行けないのか?については私はNOだと思っています。

自分が発した言葉の背景が説明できて、相手を説得できて、ああ、そういうことなら、仕方ないな、と思わせるまでが議論。
ちゃんと自分の正当性を主張して、自分の行動を決めたらいいのです。

今回、私が憤った理由は、議論の中で間違いを認めて、謝罪をするという結論にたどり着いたのに、すぐに覆した事。

集団リンチだったから、ネット工作員がやったから、どっちもどっち。
と当人ではなく、擁護する方々呟き始めました。

だったら、議論してる相手にそう伝えればよかったじゃないですか?
私は集団リンチをされていると思うから主張は変えない、と。

騒ぎを収めるためだけに謝るってかっこわるいですよ。
きっと、いまでも自分は正しい、と思っていると思うし、すくなくとも彼女が所属するクラスタの中ではそれが正しいのかもしれません。
信じ込むのも自由で、誰にも止められません。

ただその主張を誰もが支持する訳ではなく、人を傷つける言葉を言い続ける限り、誰かがまた反論してきます。
それが永遠に続くでしょう。
人を「批判」したり、「中傷」するってそれほど覚悟がいる行動なんです。


私には理解できない事がひとつあります。
批判も意見もされたくないのに、公開された場所で「批判」「中傷」を続ける理由はなんでしょう?
居心地のいい仲間のクローズドな環境でやっていればこんな事にならないのに、それを選択している理由はなんですか?
この「批判」や「主張」をたくさんの人に知ってもらって、賛同者を増やしたいからじゃないんですか?
もし、そうだとしたら、ネットのメリットだけを享受し、デメリットは受け入れないという主張に見えます。
そういうことでしょうか?

他に理由があるというならぜひ知りたいくらいです。
いくら考えても私には思いつきません。

集団リンチって言葉を利用していた方もいらっしゃいましたが、たくさんのから意見を受けたら、集団リンチですか?
私からは批判する人たちを選別して、意見に反論できないな、という方はブロックをしてましたし、反論できそうだと言う人には意見を返すという行動に出ていたと思います。
それを集団リンチというのでしょうか?

リンチって、制裁を加える事なんですよ。
彼女達の主張に従って、物事を捉えるなら「制裁を加えられた」という事なのでしょう?
どんな制裁?
言葉によって傷ついた事を示すのだったら、すでに彼女達の心ない言葉に傷ついた人に対しても同じ言葉を使いますか?

さらにネット工作員による活動?
もう、これは可笑しくて笑いました。
そんな事をしないと自分たちの主張が守れないのであれば、反論に無理があるとそう感じざるを得ません。
議論を放棄した、ということです。
「あなた達はお金をもらって私たちを攻撃している人なので、私たちは正しい」とその選択が主張しています。

それしか選べないほど、彼女の主張は正しかったと私は思っています。
ちゃんと、議論に対する正当性を認めた上で、私はこれが正しいと信じてるから、変えません、と議論の相手に言うべきだったのではないでしょうか?
さらなる批判を覚悟の上で。
信じて、口から出した言葉に責任を取ればいいのです。

 

私も時々、厳しい意見を頂く事があります。
訂正する事もあるし、相手の主張が納得が行かない時は可能な限り、議論します。
その上で、お互いが平行線である事を納得し、関わらないという選択をすることもあります。
その過程を通らず、面倒になって途中で放棄する、話をすり替える、という形をとりましたよね?

 

その過程を間違っているから、状況が悪化していくのではないでしょうか?

言葉ってとても重いものなんですよ。
自由ではないのです。

自由でない言葉を使って、どれだけ自分の主張を伝える事ができますか?
人が誰かとコミュニケーションをとるとき、それがベースになっています。
SNSが作られた目的は人と人のコミュニケーションのためであり、悪意の拡散のためだとは私は思いたくないです。

さて、最後に一番、語りたくない、「どっちもどっち」、「代理戦争」に対する私の意見を書きます。
ちょっと、重すぎる課題なので、次の記事で。

 

つづく。