■「絶対王者」を守ることの難しさ その2
そういう意味では羽生結弦という人間は恐ろしいほどにブレない競技者だな、と思っている。
いつも想像の斜め前をいく、大胆で強気なその戦略。
そりゃ、無理でしょ、と思わせるようなことも、無理矢理にでも自分の方に引き寄せる得体の知れないパワーを持っているな、と感じることも多い。
彼がいつまで先頭を走り続けられるだろうか、と私も考える。
願わくば平昌のその舞台に立つまでその位置にいられたいいのに、とずっと願っている。
想像通り、昨年、後半ぐらいから昌磨がいつ、羽生結弦を超えるか、という煽りが加速していく。
まるで4年前のデジャブを見ているよう。
あの時はその騒動に乗って、大騒ぎしたファンの思いも積み上げられ、ちょっとな、と思えるようなネット上でのやり取りもたくさんあったと思う。
それを知っているからこそ、煽ってくれるな、ともちろんファンは思うけれど、それは無理だろう。
ただでさえ、平昌でメダルが取れそうな男子フィギュア。
羽生結弦が押し上げた人気コンテンツであるフィギュアをより面白おかしく見せようとマスコミは躍起になっているはず。
彼らが欲しいもの話題性であり、視聴率でなのだから。
だからせめて私は冷静でいたいと思う。
煽られた世界に真実はないのだから。
ひりひりする緊張感の中、二人の勝負はリンクの上でつく。
もしかしたら、平昌のリンクに立つまで勝ったり、負けたりのデットヒートを繰り広げるのかも知れない。
たとえ昌磨に負けることがあっても、彼はそれでは終わらないアスリートだ。
時には負けることも新しい彼の可能性を見出すひとつのヒントになるのかもしれない。
そんなシーンを見たら、私もきっと、悔しいと感じるかもしれない。
でも、それは彼が負けることが悔しいのではなく、彼が目指したものが実行できない悔しさでしかない。
だって、私は知っている。
彼は相手が不本意な演技をして勝ちたい選手ではないことを。
誰もが素晴らしい演技をして、さらにその上を行くことを目指して戦っているだということを。
去年のNHK杯のショートプログラムで、ボーヤンの点が出た時のあの不敵な笑み。
それそのものが彼を表しているのだろうから。
つづく