■平昌の表彰台は新時代という扉の向こうにある 〜四大陸選手権FS男子 雑感 2〜
静かなフィニッシュのあと、TESカウンターをみた。
100点を軽く超えていた。
クワドサルコウをミスった時にはこの結果を想定していなかった。
失敗がありながら、彼はTESで100点以上を稼ぐ偉業を私たちに見せていた。
私自身、多分、ものすごく興奮していた。
羽生結弦の闘志むき出しのこんな演技はあのニースロミオ以来かもしれないと思った。
その存在を知り、抜け出せない沼へと私を引きずり込んだ作品。
若さと、不安定さと、そして爆発的な意志がそこにあった。
何もないところで転んだあとの3A-3Tと、あの雄叫びに心を鷲掴みにされた。
あれから約5年。
まだ5年。
またもその強いその姿に魂を持って行かれた、そんな気分になっていた。
もう、冷静ではいられなかった。
気づくと、目に涙が浮かんでいた。
なんの涙だったのか、自分でもよくわからない。
そこに立つ姿があまりに眩しすぎたせいかもしれない。
最終滑走者のネイサンがどんな演技をして、羽生結弦に勝とうが、負けようが、どうでもよかった。
このパフォーマンスが見られたことが幸せだったから。
彼がこのパフォーマンスを見せてくれたのが、しょーまやネイサンという追いかけてくる、そして、追い越しそうな存在だったのだとしたら、
もう、彼らの存在に感謝しかなかった。
こういう彼が見たかった、と気づいたから。
クールで冷静な羽生結弦も悪くはないけれど、ちょっと何かもの足りない、そんな感じがしていた。
何かを猛然と追いかけるその姿が彼らしさを醸し出させるものだったのかもしれない。
しばらく彼は独走状態。
多少、ミスしても勝てる。
彼の勝利を邪魔するものは怪我や病気や、世界最高の自分というプレッシャー。
こういう見えないものと戦い続けた彼の目の前に現れた「追いかけるべき存在」。
彼がそれを意識した時、パフォーマンスはこれほど熱くなるものなのか、という驚きがそこにはあった。
ネイサンが次々とクワドを決めている姿をみて、今日は負けた、と覚悟を決めた。
僅差で勝てるかもしれない。
でも、5本目のクワドが着氷したのを見て、ああ、今日はネイサンだ、と納得できた。
彼もまた、勝つために予定構成では4本だったクワドを5本にしてきたのだから。
「勝ちたい」という強い強い欲望は、近年、稀に見るまるで殴り合いのような真剣勝負だった。
誰も一歩も引かなかった。
自分の持っているものを最大限に発揮しようとして、挑んだ結果の順位だった。
四大陸の3つ目の銀メダルを獲得した彼はそれでも晴れ晴れした表情だった。
一番楽しかったとも言っていた。
フィギュアスケート男子は新時代に突入した。
当たり前のように種類の違うクワドを何本も跳んで、美しいスピンや正確なステップで点を積み重ねる。
ミスはメダルの色を変える。
クワドはもちろん、全てを持っていないと勝てない、そんな時代に。
2010年、バンクーバオリンピックでは1本をクワドを跳ばなくても勝てた。
そういうルールだった。
2018年、平昌オリンピックでは、複数種類のクワドを最低でも6本(SP/FS)を跳ばなければ、表彰台には上がれないだろう。
ネイサン、ゆづ、しょーまは自らのパフォーマンスでその未来を垣間見せた。
この時間は羽生結弦がシニアで駆け抜けてきた時間とほぼ一緒だ。
恐ろしいスピードで競技の形が進化している。
その先頭を走り、常に未来を切り開いてきた男と、その彼を追い越そうと新しい武器で挑む彼ら。
怖くもあり、そして、楽しみでもあるそんな未来。
平昌オリンピックへと続く扉を開けた3人が表彰台の上に立っていた。
彼らは間違いなく来年のメダル候補。
このレベルについてくるか、追い越すモノを持っている人だけがそのレースに加われる。
今のところ、彼ら以外に可能性があるのはハビエルだろう。
ヘルシンキでこの扉を開けた3人がどんな戦いを見せてくれるのかを考えるとワクワクしかない。
ライバルとの距離感が縮まって、今までとは違う緊張感で試合を見ることになるだろうけれど。
つづく。