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羽生結弦くんの応援ブログです。ここで記載されている内容はあくまでも私の個人的な意見であり、正当性を評価したものではありません。どのように受け取るかはそれぞれがご判断ください。

言葉はそれほど自由なのか? 〜「震災をアクセサリーにしている」発言について 1〜

■本来の応援ブログにふさわしくない内容になっています。不快な方はスルーしてください。

 

私は数日前、ある方の勇気のある行動にとても驚いて、感動していました。
ネットという魑魅魍魎が跋扈する世界で自分の主張を真っ直ぐに口にした姿に。
私が諦めていた事を行動で見せてくれたことに。

 

世の中には多数の人がいて、多数の意見がある。
そう、もちろんそれは大前提です。
ただ、公開されている場所である以上は、ある程度の制約はあるべきですし、それを規定した法律もあります。
それでも、ネットは公開される言葉を制約しづらい性質にあるため、垂れ流される傾向があり、事件や衝突なども今は増えています。

 

今回の事象をひもといて私なりの分析と意見をまとめてみたいと思っています。

 

まずは発端になったこと。
それは、Twitterで垂れ流されきた、多くの中傷。
あまりに数が多く、今でもTwitterやそれをまとめたサイトではつぶさに確認する事ができます。
あえて晒します。
なぜなら、私がここで書かなくても、検索すればすぐにヒットするからです。
私が最初に見つけたもの検索からでした。
少なくとも過去、TwitterやBlogで吐き出された言葉のスナップショットがここに保管されているのです。
その瞬間、どんな前後関係があったのかを加味したら、違う言葉に取れる言葉がないとは言いません。
でも、その言葉を呟いたり、書いたりしたから、ここに残っているのです。
まとめが捏造と主張するかたもいらっしゃいますが、その主張はあまりにも陳腐です。
その言葉がなければ、ここに集める事もできないのですから。


■【その1】高橋大輔選手のファンが悪質すぎる件
■【その2】高橋大輔選手のファンが悪質すぎる件
■【その3】高橋大輔選手のファンが悪質すぎる件【Twitter版】
■悪質な高橋大輔ファンが震災やチャリティを絡めて羽生結弦選手の酷い捏造を拡散している件

それらを彼女達は批判と称します。
なぜ、批判と主張できるのでしょうか?

 

中傷と批判の境界線はどこにありますか?
この二つはその発言に根拠があるかという点で線引きされています。
そして、中傷は当事者が法的手段をとれば罰することもできます。

 

このまとめにまとめられた内容は事実でしょうか?
例えばこの話の発端となった「震災をアクセサリーにしてる」は感じた事であって、事実ではありません。違いますか?
テレビや新聞などのメディアや、そして彼の行動をみて、それぞれが受け取ったことです。
感情や感覚は「事実に」にはなりえません。
最初に言った通り、世の中には多数の意見が存在するからです。

同じ花を見ても、綺麗と感じることもあれば、色が好きじゃないと感じるかたもいるはず。

この言葉達は事実ではなく、感情。
であれば、批判である、という主張は通りません。

この中傷も井戸端会議でやるのなら、こんな騒動にはならなかったでしょう。
何を思ったのかよく分かりませんが、全世界に公開された場所でこれをやり始めたのです。

その言葉を不快に思う方から、たくさんの意見がされたように見えます。
「主張は自由だ」と声高に主張していました。もちろん、同感です。
でも主張が自由というのは、その主張が批判されない事を保証するものではありません。
自由には責任が伴うのです。
主張が自由なら、もちろん反論も主張のひとつですから、同じ権利を主張する側も持つのです。
自分がやっていい、と主張している事に対し、相手は制約を受けるべき、という反証はなりたちませんよね?

 

だから私は言ったのです。
反論されたくなければ、井戸端会議でやるか、鍵付きのTwitterでやればいい事だと。
そうすればどんなことを言っても誰にもとがめられません。

公開された場所に出された言葉はどこへ行くか分からないというのがインターネットの世界の現実です。
それが過去に発したものであっても。

そして、反論を受けても自分が正しいと思うなら、ちゃんと主張したらいいのです。
140文字では上手くつたえられないと逃げていたら自分の正当性は主張できません。
批判は(あえて批判と書きますが)140文字でできるけど、反論はできないのですか?
本当に自分が正しいと信じていて、ツールでそれを満たせないのなら、私のようにBlogを使えばいいんです。

自分が人を傷つける言葉を口にするなら、相手からそれ相応の報いを受けるのが普通です。
誰かに殴り掛かってるのに、自分に殴り掛かるな、なんて変な理論じゃありませんか?

情報を公開することに対する私の意見はシンプルです。

1.公開するなら、どう使われるかは自分でコントロールできないという覚悟をもってする。
2.自由な主張には自由な反論が返ってくる。
3.正しいと思うなら最後まで議論すればいい。

 

それだけです。
言葉には責任が伴うんです。
そして、すくなくとも活字だけでコミュニケーションを取っている世界では、それがすべて。
言葉が「人格」になるのです。

 

そう思ってもその言葉を綴れますか?

 

 

つづく