読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Stay Gold!

羽生結弦くんの応援ブログです。ここで記載されている内容はあくまでも私の個人的な意見であり、正当性を評価したものではありません。どのように受け取るかはそれぞれがご判断ください。

【雑感】「ファン」と「アスリート」の距離 1

私は2012年3月のニースのロミジュリの演技を見てからどっぷりゆづファンになりました。
そのはまりっぷりは自分でもちょっと頭おかしいよね、と思うほど。


でも取り巻く環境はたぶん大きく変わったね。
2012年に始めて全日本を見に行った時、職場でその話をしても誰も「羽生結弦」を知らなかった。
2013年、スケートカナダを見るために休むことを伝えた時も「誰が出るの?真央ちゃん?高橋くん?」というのが一般的な人の反応だった。
その都度、ムキになって羽生結弦がどれだけポテンシャルのあるスケーターかを暑苦しく語った自分が懐かしい。

そして2014年。
スキー場で携帯を落とすという失態の後、警察に届けられた携帯の特定のため、「待ち受け画面は何ですか?」と聞かれ、躊躇ののち「羽生結弦さんの写真です」と答えた私への返事は「そうですね」という警察官の軽やかな声だった。
職場では「男を見る目がある」と複数のおじさまから褒められたりもした。

オリンピックというお祭りは彼が残した結果とともに彼の取り巻く環境を変えたのだろう。
実際、SOIの織田君との対談でも本人が自分は変わってないのに、周りが変わった、と言ってたよね。
それだけの威力のあるお祭りだったんだと思う。


ショーにいっても、去年とは明らかに違う声援のボリューム。熱狂的な空気にこっちが驚くほどだった。
ショーでも始めて見に来ました、という方にたくさん出会いました。
彼の頑張りが新しいファンをこうして、運んで来たんだな、と思うと感慨深げです。

それと同時に熱狂的な一部のファンの行動に疑問を持つ古いファンも出て来ましたよね。
それはフィギュアだけでなくどのスポーツでもあること。

私にとっても世界選手権の「ゆづ愛してる」事件は衝撃でした。
いまでもあれを口にしたのがファンだとは信じたくないくらい、ひどい事件。
もし、直接、会えるなら、なぜそんなことをしたのか教えてほしいくらいです。

彼はアスリート。
それはみんな分かっているはず。
だって、歌ってる彼を見て好きになったわけじゃないでしょ(あ、よく熱唱してるからそういうファンもいる?)?
多くは演技をする彼をみて、そして、そこまでの道のりの険しさを知って、その努力に敬意を持って、もっとその演技がみたいって思ったんじゃないかな?と想像してます。

色んなインタビューをみたり、雑誌を手にしたりで、少しでも彼のことを知りたいというファン心理は私もよく分かります。
どれだけこのシーズン新聞、雑誌などの媒体に貢いだか計算できないくらいだもん。

その気持ちがエスカレートすると出待ちとか、オフィシャルホテルに押しかけるとか、練習拠点に押しかけるとかになるんでしょうね。

私にも直接、会って、話をしてみたいという願望はあります。
ソチオリンピックのあの時、どんな気持ちだったの?とか。
まっちーとの世界選手権での争いで何を感じたの?とか。
聞いてみたいことはきっといくらでも出てきます。

だけど、超えては行けない一線があるということが分かるくらい育ってしまいました。
もし自分が逆の立場だったらどうか?ということを自分に問いかけると自ずとやったらマズイな、と思えることは分かるから。
自分がそうしたいという気持ちと、相手がどう思うかの間で心はせめぎあいます。
それが人だと思う。

私は彼のスケートに向かう姿勢が好きです。
勝負を目の前にどんな状況でも諦めないその心意気に本当に人間として惚れてます。
そしてもちろんあの細い身体が生み出す繊細だったり、大胆だったりするパフォーマンスがとても好きです。
スケオタ度がこの2年でだいぶ加速したので、好き嫌いと、技術的な凄さが違うことも分かって来ました。
それでもなお、私は「羽生結弦」のパフォーマンスに惹きつけられて、魅了されているのです。

彼についての情報を集めたり、同じ選手を応援する人たちとつながりたくてSNSを使っています。
その情報に助けられたこともあるし、そこから縁をつないだ人もいます。
いいことばかりじゃないけど、私にとっては有益なことの方が多かったし、きっとこれからもそうだと思っています。

だけどアスリートとの距離の前に、このツールとの距離感がわからない人がたくさんいるということも感じるようになりました。

時にTLを騒然とさせるような出来事をいくつかみて来て感じたことを書こうと思って書き始めたら、前置きが長くなりましたw。

そう140文字では伝えきれないことがある、そのことと、アスリートとの距離の取り方の問題をごっちゃにせず、向き合うことが自分にも必要だ、とそう思えたからです。


ということで、余りに長くなって来たので、次に、続きます。